Era of Suiseisha水星社の時代

Era of Suiseisha

2026.09.08
水星社の時代
楽曲管理とラジオ文化

マルセル・カルネの映画「夜の門」(1946)は、暗すぎで当たらないと判断され日本では公開されなかったが、主題曲「枯葉」だけは、日本中で知られるようになった。
テレビが一般に浸透するずっと前から、日本ではフランス映画に対して、特別な高級感があり、その主題歌のシャンソンには、おしゃれなイメージがあった。「枯葉」が凄い勢いで日本に浸透した背景には、まずこのイメージが大きい。
そしてそのプロセスには日仏の出版社とその代理統合機関(JASRACやSACEM)との必要度の認識を巡る大きな攻防が潜んでいた。

「枯葉」は、まず1951年にパリ留学中の高英男が淡谷のり子に資料を送り、彼女が1952年にレコード発売。
その年帰国した高も吹き込み、10万枚の大ヒット。
同曲ながら歌詞が異なり、「枯葉」は実演やラジオで散々ながされシャンソンの代名詞のようになった。
淡谷と高は版権を持つエノック社(パリ老舗出版社)と直接やりとりしたが、それから数年後、JASRAC会員として、改めて正式に契約したのが水星社(木下美智子)である。
(少しややこしいが、日本で、この楽曲の権利を複数の会社で、管理する事になったのは、先行して淡谷と高のレコードが出ていたことが大きい)
著作権管理の意識がない時代。1956年設立後、既にやりとりがある水星社が、海外の要求の橋渡しをする形で、1959年にはじめてサブ・パブリッシャーとして、JASRACに信託を任せた。
この事は、著作権管理の日仏の窓口の安定を意味した。
JASRAC?SACEMの大きな管理下での契約は、海外の出版社ならびに信託機関(SACEM等)からの、水星社への大きな信頼に繋がった。

「枯葉」が、映画は上映されないのにヒットした最大の原因はラジオである。
戦後、焼け野原で生きる日本人が最も癒やされたのは映画とラジオの存在であった。
GHQの監視はあったけれど、多くのハリウッド映画と、競うように邦画も、どんどん製作され、宣伝の為にそのテーマ曲がラジオでながされた。(洋画も邦画も、これという映画は大体主題歌がついていた。)
主題歌?映画のコラボは、まず宣伝で主題歌がヒットすれば映画もヒット…そうするとまた主題歌が広がる…映画会社にも音楽業界にも、とても美味しい話であった。
勿論JASRACも大活躍である。この構図でヒットした映画主題歌は沢山ある。

しかし、日本の独特の映画と主題歌とラジオの文化は、思えば60年代の前半がピークだった。
少しだけ、テレビもかさなりながら、1970年代初め頃には完全に消えていった。
原因は、まんべんなく映画を見ていた日本人が、映画を観なくなった事だ。
高度経済成長で、豊かになった日本人は、映画以外に娯楽を見いだしたのだ。