Era of Suiseisha水星社の時代
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Era of Suiseisha

フランス映画の主題歌の管理楽曲を紐解いて、さてその次にイタリア映画と思ったが、その前にどうしても、“みさお”という同名の二人のシャンソン歌手の話をしたくなった。
菅美沙緒(1916〜2000)と中原美紗緒(1931〜1997)。
名前の音は同じ“みさお”だが、漢字で書くと少し違う。
二人とも水星社にとって切っても切れない存在だ。名前が“みさお”で共通する点も偶然だが、不思議な話ではある。
一人目の菅美沙緒は、シャンソンを日本に広めた大先達だが、いまでは忘れられた存在だ。
私は水星社を意識してから、今回改めて日本のシャンソン文化に、彼女が強く影響していた事を再認識した。
菅は歌う才能と研究者の一面に詩を書く才能を併せ持っていた。時代の中で出るべくして出たというべきか…。
彼女は、1916(大正5年)愛媛県今治生まれ。
オペラ歌手になるべく東京に出て、当時の日本の最高峰歌手三浦環に師事。特別可愛いがられたという。
三浦は国際的歌手であり、彼女に師事した若きみさおは、フランスを中心としたヨーロッパ文化を死にもの狂いで勉強したと思う。
大正から続いた日本のモダン文化流行の下地があり、 昭和10年代(1930年代)頃から日本ではシャンソンが人気を集めていた。この中でブームを決定したのが、昭和13年(1938年)に、日本コロムビアから発売されたSP盤の6枚組アルバム「シャンソン・ド・パリ」だ。
表紙に藤田嗣治の絵が入る豪華アルバムで、これを見ただけで、当時の日本のパリ(フランス)文化への強い憧れがみえてくる。
解説は蘆原英了で、当時フランスで活躍していた著名歌手の音源をまとめたものである。これが日本における初期の本格的なシャンソン紹介となった。蘆原英了は、日本のシャンソンを紐解く最重要人物だが、菅美沙緒との関わりも深かった。

藤田嗣治の表紙!
このアルバムの曰くは、日本のシャンソンを語る上で、無視できない。最初二千組予定の第一アルバム(1938年)が、一万二千組売れるという空前のヒット。(価格が大学出初任給の1/5もしたという)第2集(1940年)も一万二千組が売れたが、パッケージや解説用にする高級紙が足りず、すでに時代は(贅沢禁止)であった。この後のアルバムは戦争を挟んで、厳しい監視の中、本当に隠れるように予約販売されたという。
戦後1955年になりやっと最後の8集が出されたのだが、17年もかかった事になる。 戦争による文化の統制をかいくぐり、このアルバムが、日本のシャンソンブームの源流となっていったのは、隠れてまでもシャンソンを聴きたい日本の人たちの夢だった。
私は70年代の中頃に、藪内久さんのお宅で、風呂敷に包まれ宝物のように扱われたアルバムを見せられた事がある。SPでもありその重みに驚いたが、中身はその場では聴けなかった。何故彼等が、わざわざ見せてくれたのか、その時は分からなかったが、現在はよく分かる。あのアルバムは(フランス文化への憧れ)だったからだ。そうして今回、菅美沙緒を知らなくてはと思った時から、あの時大事そうに手にとって見せてくれた藪内夫妻をよく思いだす。
菅は、戦後喉を痛めてオペラからシャンソンに転向したと言われているが、戦争中に体験した“人間の生活”をダイレクトにうたうシャンソンの魅力に、オペラとは違った手応えを感じたのだろう。戦後すぐにシャンソンのコンサートを開いた記録もあり、短い経歴の数行からもその意欲と情熱が見える。
1971年から度々渡仏。
その後彼女は、自ら歌いながらも、その才能を訳詞と後輩の育成に傾けた。それは歌うことと同じ熱量であり文化を伝えたいとう使命感があったからではと思っている。(これは美智子にも言える)
時代も古くて、他の戦後活躍したシャンソン歌手のように歌っている画像等が残されていないのが残念だ。
彼女の訳詞の代表曲は、「さくらんぼの実る頃」「私の回転木馬」といった初期に書いたスタンダードシャンソン。水星社の社員になってからは、社長関根美智子の買い付けてきた新しい曲(映画の主題歌も多い)に水野汀子という訳詞家として、その才能を傾けた。
菅と美智子は、一時タレントとマネージャーの関係でもあり、美智子が菅にいかに惚れ込んでいたかは水星社の誕生とも大きく関わっていた。菅は水星社という会社の大きな柱の一つであったともいえる。
