Era of Suiseisha水星社の時代

Era of Suiseisha

2026.10.15
水星社の時代
フランス映画の主題歌 5

前2回のブログ(二人のMISAO)を書くまで、私は製作国で整理しようと考えていたが、拘る事を止めた。ジャンル分けにした方がスッキリするが、この方法とて、情報が錯綜してすんなりとは決まらない。だから読者にはタイトル番号が、前後する事を許してほしい。
 
今回は、少し戻って映画で使用されたシャンソンの続きである。
長い伝統あるシャンソンは、大きな歴史の中で形を変えてきたが、60年代になり炸裂したイエイエの登場はフランスのポップスの大変換だった。
第二次世界大戦後、フランスの若者たちの間でアメリカ映画やファッション、音楽ではロックやツイストといった新しい文化があっと言う間に浸透した。これはあきらかに大資本が裏付いていたが、世界中の若者が古い仕組みにうんざりしていた事が大きく、それぞれの国で、反発の原因は違えど一種の若者世代の連帯感が生まれていた。戦争で荒れたフランスと大人たちへの若者たちの反発は強く、音楽では、それまで愛好されてきた伝統的なシャンソンに対抗してイエイエが登場した。
この傾向はイタリアの方が、少し早かったが、フランスはイエイエポップスとしてジョニー・アリディ、エディ・ミッチェル、女性ではシルヴィ・バルタン、フランス・ギャル等が出現した。
彼等フランスのイエイエアイドルが総登場するのが映画「アイドルを探せ」(1963-1964日本公開)である。
非常にたわいのない映画ではあったが、大人側シャンソン代表のようにシャルル・アズナヴールが登場した。

EP120万枚!アイドル誕生!

日本ではシルヴィ・バルタン
の人気が爆発。ドーナツ盤を120万枚売り上げたという。
シャンソンのレコード販売の日本国内最高記録である。
本作のヒットを契機に、日本で「アイドル」という言葉と存在がより一般的なものとして定着した事も特筆に値する。
シルヴィは1965年に来日すると大歓迎され、レナウンの広告(表紙)効果もあり、日本に新しいシャンソンのイメージを作った。その夫でもあったジョニー・アリディは日本では人気が出なかったが、主演の「ジョニーは何処に」(1963-1964日本公開)も、シルヴィ人気で公開された。
水星社は当初「アイドルを探せ」と「ジョニーは何処に」の楽曲を管理していたが、現在はアズナヴールが「アイドル…」の中で歌った「想い出の瞳」が残されている。
この曲は、シルヴィの「アイドル…」程のマグナムヒットにはならなかったが、多くの日本人歌手がカバーした歌だ。別れた女への未練を断ち切る歌だが、「アイドルを探せ」当時のニューウェーブ、若いイエイエアーティストの中に彼はスーツで登場。 
アズナヴールこの時40歳。彼の歌う姿は、従来のシャンソンとイエイエという観点から見ると、深い感慨を覚えさせられる。そして日仏のシャンソン文化の関係が、このあたりから大きく変わり始めた。

王道を行ったアズナヴール。

当時、アズナヴールの盟友でシャンソン界の人気を二分していたのが、ジルベール・ベコー。水星社は、彼とも関係が深かった。 
ベコーが主演した「遥かなる国から来た男」(1956-1957日本公開)の音楽出版のサブパブだったし1959年の合作映画「カジノ・ド・パリ」は現在も日本の窓口だ。この映画からベコーは「雨の降る日」というヒットを出している。
国際歌手カテリーナ・ヴァレンテや映画監督にして名優でもあったヴィットリオ・デ・シーカも出演する楽しいミュージカル映画だった。ラテン調の主題歌「メロディア・ダモーレ」もヒット。

カジノ・ド・パリは、9区に18世紀からある劇場

カテリーナ・ヴァレンテは、イタリア人というよりヨーロッパ人といいたい職人歌手で、どんなジャンルの音楽も歌いこなすプロの歌唱&ダンス力と美貌を兼ね備えていた。(日本人でこのタイプを私は知らない。)
数回来日していて、「恋のバカンス」など日本製の曲を器用に日本語で吹き込んだLPもある。
 
アズナヴールとベコーの映画以外の楽曲管理も最初は水星社から始まったが、二人は、イエイエには迎合せず60年代〜70年代に自分のシャンソン(ジャズの影響大)の王道を邁進した。
そう出来たフランス社会の懐は深い。二人はピアフの紹介で出会い、仲もよく幾つかのヒット共作がある。(後日に。)